89 こさ池とかゆ塚

89 こさ池とかゆ塚

今は多摩湖の底になってしまった内堀に、こさ池という池がありました。古歌に残る「狭山の池」とも言われている池で、この辺では最も大きく、水に沈むまで田用水として使われていました。
このこさ池にまつわる伝説があります。

昔、新田義貞が鎌倉を攻めた時、この附近に陣を布(し)き、こさ池の水を汲んで粥をつくって軍勢に食べさせたということです。食べた場所が「かゆ塚」と言って東村山の廻り田にある金山神社の南に残っていました。その辺には四ツ塚と一言って当時の伝説がある塚が最近まで並んでいたそうです。又、こさ池に近い山の上に、「ごはん塚」といわれた所もありました。
(p195)

中世の湖底の村

山口氏と宅部郷
武蔵七党の一つとして知られる村山党は、平安時代に発生した土着の武士団である。村山党の祖、平頼任の孫に当る頼継が、山口(現所沢市)に居館を構えて山口氏を称した。一一九○(建久元)年、源頼朝の上洛に従った武者三百十余騎の中に、四名の山口姓を名のる者があった(『吾妻鏡』)。

湖底の宅部郷内堀は山口城(館)の南西約一.七キロメートルの近距離にあり、推測の域を出ないが、北の堀之内、西の堀口、南西の新堀と同様に、山口城の守りの役を果したという説もおこなわれている。いずれにしても武州多東郡山口領と呼ばれ、山口氏に属していたものと推定される。

かゆ塚と御飯塚
一三三三(元弘三)年、新田義貞は大軍をひきいて鎌倉攻めに立った。途中、狭山丘陵の北側にあたる小手指原で北条軍と合戦をおこなった。湖底の村も戦陣の一部になったにちがいない。

義貞はその時、この付近に陣をしき、こさ池(湖底の一角にあった)の水を汲んで粥を作り、軍勢に食べさせたという。東村山市廻田の金山神社の南に残る「かゆ塚」と、こさ池の上、小十郎窪の頂上にある「ご飯塚」といわれるものが、その言い伝えの場所であるとされている。

なおその後まもなく、世は南北朝動乱の時期を迎えるが足利尊氏に追われた南朝方の総帥護良親王の子高瀬丸が、逃れて宅部の石井左京忠治という者の所へ身を寄せたという伝承がある。

そうしてやがて山口城に入った高瀬丸は、山口氏の滅亡と運命を共にしたと伝えられている。
それらの伝承の真偽のほどはともかくとして、湖底の村の人々は戦乱の中で、いろいろな難儀にあったことは、想像にかたくない。

板碑
そこに刻みこまれている紀年銘(年代を書いた文字)から、中世に作られたことが確実な資料として、板碑がある。これは秩父産の緑泥片岩を用材として作られた供養塔、あるいは塔婆の一種である。東大和市に現存する最古の板碑は、円乗院所蔵のもので徳治二(一三〇七)年の銘をもつ。市内では最古の文字で書かれた歴史資料である。しかしもともと湖底の村にあったことがはっきりしていp206
p207
る板碑のうちでもっとも古いのは、徳治三年二月という紀年銘をもつ板碑である。それは湖底の村の内堀の関下家宅地から出土し、移転にともなって円乗院に保管されるようになった。さらに同じ徳治三年七月建立の板碑が、三光院に現存している。

やや降って正和二(一三一三)年銘をもち、竹内家宅地裏(林)の竹やぶから出土したといわれる板碑もある。そのほかの聞き取り調査によれば、「内堀阿弥陀堂の共同墓地の前にあった、元の墓地(こさ池の下)の杉の根方には、移転の前まで五~六基の板碑が建っていた」(内堀専司)そうであるが、今日その行方は全くわからない。

東大和市内には合計九六基の板碑が現存している。その年代は先述の徳治二年を最古とし、天文一一(一五四二)年にいたる二三○年余の間にわたる。彫られている種子はほとんどが阿弥陀であって、鎌倉・南北朝・室町の時代を通じて、阿弥陀信仰が盛んであったことを知る。

なお南北朝時代の板碑のうち、初期の四基だけが南朝年号、他は北朝年号が記されており、武蔵野の山深い里にも動乱による政治上の変化の波が、強く影響していたことがわかり、興味深い。

中世の社寺
中世建立が伝えられる神社に氷川神社がある。『狭山の栞』にはこの神社が建立された際に納められた棟札の記録があり、建保二(一二一四)年という年号が記されていたという。

江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』には、三光院にまつわる不動明王の由来が、概略次のように書かれている。

「天慶二(九三九)年、平将門の乱を鎮めたのは、藤原秀郷・平貞盛であるが、その秀郷が陣中に杞っていた不動明王が、その後永楽年中武田信玄の手に移り、更に北条氏政が奪い相模国築井に安置し、天正一八(一五九〇)年、北条氏滅亡後、徳川家代々の武将が崇敬している像ということで、多摩郡宅部村三光院に移し祀っていた。そして延享四(一七四七)年幡ケ谷村(現・渋谷区)荘厳寺に安置した。」と。同じようなことが、『江戸名所図絵』にも『荘厳寺の沿革』にも述べられている。

この記事には三光院がいつ頃からあったという年代を明示しているわけではないが、江戸時代以前から注目された寺であったことを想像させる。(多摩湖の歴史p206~207)

284、御判塚(ごはんずか)


    東大和のよもやま話という本の中に「こさ池とかゆ塚」という話があります。 あらまし、昔、新田義貞の軍勢が湖底にあった「こさ池」の水で粥を炊いて、東村山の回田あたりにあるかゆ塚で食べた、という話です。 話は、ここまでですが、その後の記述に、この話を書いた人の説明として、こさ池に近い山の上に「ごはん塚」と言われた所もありました。と書かれています。 
   ところが、東大和モニュメント22、ごはん塚(2っ池に設置〉の解説に よもやま話の引用として、昔、新田義貞が、鎌倉を攻めた時にこの付近に陣を布き、こさ池の水を汲んで、ごはんを炊き、軍勢に食べさせたということです。食べさせた場所は、こさ池に近い山の上で、「ごはん塚」といわれ、当時の伝説にまつわる塚があったそうです。と書かれています。 
 言うまでもなく、この解説は、早とちりで、ごはんを炊いたなどという話はありません。
   ごはん塚というのは、たぶん「御判塚」のことで、地誌「狭山之栞」 多摩郡狭山村之内宅部の項に、いくつかあった塚の1つとして記録されています。 このいわれなどについては、記述はありませんのでわかりませんが、近年、観光ガイドの養成がされ、間違った話が広まることをおそれています。(2015.9.11記)
(注) 御判塚の 判 という字は旧字になるのか、右則の半の縦棒が下で左に曲がっています。(2015.10.10記)